【書評】二十歳の原点、高野悦子と私

 

こんにちは。日曜日、どうお過ごしでしょうか。

昨日は3時までブログを書き床についたところ、15時頃まで寝てしまいました。13時間睡眠ということですが、こういうことを自分はよくしてしまいます。社会人になったら、社会が私を人間にしてくれるのでしょうか。

 

昨日は、「二十歳の原点」(高野悦子)と言う本を読みました。

昭和46年(1971年)に新潮社より発行された日記で、幾度となく重版され、今年はコミック版が出るなど、長い間読まれ続けてきたベストセラーです。

コミックス版が出るにあたって本屋に平積みになっていたのをたまたま手に取ったのですが、20歳の時に読めて良かったと思える本でした。

当時、私と同い年の高野さんが何を思って生きていたのか、そしてその若さで死んでいったのか。

日記だからこそ、その時その瞬間の高野さんの感情、そして京都での学生運動の情景がありありと思い浮かびます。

自分の浅学故、学生運動についてあまり詳しいことは知りませんが(勉強します)、自分の国のことを本気で憂い、公権力と闘った当時の学生のエネルギーは、今の自分達には足りないものだと感じます。

高野さんが日記に綴っている日常の中で感じたことは、現代に生きる私が日々思う事と、一見違うように思えます。

しかし、高野さんと同じく女性であり、20歳であり、大学3年生である私には、高野さんが言っていることが全く理解不能だとは思いません。

人は孤独だと高野さんは何回もこの本で言っています。人は孤独である。そう考えたことがある人は少なくないと思います。家族と生活していても、友人とおしゃべりに花を咲かしても、恋人と愛を誓っても、結局自分は一人ぼっちだと。私は高校生の頃に良く考えていた記憶があります。幸いにも、深く考えすぎない脳みそだったのでそこまで苦しむことはなかったですが。

高野さんは昔から本や詩を楽しんだり、日記を書くことが習慣だったようですが、そうやって一人で完結する世界にいることが多いと、孤独感を感じやすいですよね。一人暮らしをしている、また、高野さんは友達の少なさを自称していましたが、それも孤独感を助長する要因だったのではないかと思います。

また、高野さんは、自分が思う高野悦子と他人が思う高野悦子に大きな乖離を感じていました。自分の容姿や、性別に縛られていたんですね。これでは、コミュニケーションを取れば取るほど本当の自分は孤独感を感じてしまうでしょう。

高野さんにとって孤独感とは、湖の下に溜まる泥のような存在であって、常に底の方に溜まっていたのだと思います。友人関係がうまくいかなかったこと、失恋したこと、学生運動の末世の中に絶望したこと、そういう石が湖に投げ込まれ、孤独感が一気に舞って高野さんの湖を泥色にしてしまうのです。やがて泥が沈殿しなくなって、高野さんは死んでしまったのだと、私は思います。

 

私と同い年で、一人で、苦しんで、苦しんで、自ら命を絶ってしまった女性がいる、その存在を考えるだけで涙が出ます。彼女を分かってあげる人はいなかったのか、1人でもいたら結末は違っていたとそう思います。

 

 

長くなってしまいました。皆さんの書評は短く的を得ているものが多くて感心します。文章についてはこれから精進していきたいです。

 

 

今日は、勉強した後22時ごろに猛烈にタピオカが飲みたくなり暴れだしそうになったので、川崎まで行ってきました。タピオカは中毒性のある危険な食べ物です。ちなみに昨日も二杯飲みました。仲見世通りの夜のDEEP感を楽しみ、タピオカを飲んだ後、蒙古タンメンを食べて帰りました。そうです、デブです。

 

夏は夜の散歩が楽しくていいですね。免許を取って、夜ふらりと出かけるのが今から楽しみです。

 

では、おやすみなさい。